ファッション界の重鎮としてテレビや雑誌での辛口コメントが人気を博している小西良幸氏が本誌初登場! 夢実現に向かって頑張っている人や求職中の人に向けて、人生に即役立つアドバイスを熱く語り尽くしてくれました。若い時代に苦労を重ねてきただけあってその言葉は生きる力になること確実。時代の波にノッている先達から成功するヒントを学ぶべし!!
真実の成功哲学は先が真っ暗ストーリーは自分で創ろう
現在はマルチデザイナーとして活躍するドン小西こと小西良幸氏。しかし過去には辛酸を味わった時期があったと語る。今回はその復活劇が形成した信念に密着取材!──まずは小西さんの経歴を紐解かせて下さい。ファッションデザイナーを志した理由は?
「小学校の頃からあらゆるデザインにもの凄く興味を持っていたんだよね。それは時計や自転車、建築物、CMに対してまで、『こう創り変えたらもっと良くなるのに』という思いを常に抱いてた。デザインにもいろいろと種類があるけど、洋服に関心が高まったのは15歳の時かな。バーゲンで小花柄のシャツを買ったんだけど、同型の赤いシャツが欲しくなって自分で制作したのがきっかけ。既製品の片方だけを丁寧にほどいて、赤い布をその通りに切って縫って。もっと縫製技術を覚えたい! と思ったね」
──具体的にデザインの勉強をし始めたのはいつですか。
「最初の転機はロンドンへ行った20歳の時だったかな。キングスロードを歩いている人たちの衝撃的な服装を見て数日間、その映像が頭から消えなかったんだ。ファッションって、人と同じでなくていいんだと教えられた。その代わり、やるなら徹底して他人を魅了しなくちゃいけないんだって。それ以来、ファッションのトリコになって大学を中退。文化服装学院へ入学し直したんだ」
──大学を中退して専門学校へ!?
「だって学んでいたのは電気工学科。それも何か目標があって入ったワケじゃないから、大学に通いながら俺はダサいと思ったね。学歴もどうでもいいと思ったし。今も昔も僕は、悔いが残る行動って大嫌いなんだよ。過ぎたことは取り返しがつかないからこそ、大学を辞める時も迷いはなかった」
──迷わない気持ちが成功への近道ですか?
「迷わず突き進むと目の前の道は真っ暗で、50m先が崖になっているかも知れないけどね。でも、それこそが成功哲学の真実。世の中で信じられているサクセスストーリーは美し過ぎる。誰しもが永ちゃん(矢沢永吉)のような主人公、成功者になれるワケがないじゃない。だからこそストーリーは、自分で創っていくものなんだよ」 ストーリーは自分で創るものと断言する小西氏は、プロデビュー後の89年にイタリアの有名ブランド、ミッソーニからチーフデザイナーの依頼を受けたこともあった」
──ファッションデザイナーとして稼ぎ出してからは、順風満帆な時代が続いたんですね。
「エルトン・ジョンやスティングのような世界的な著名人や国内ではビートたけしや多くのミュージシャンの依頼も受けていたから、ファッションデザイナーとしての役割は十分に果たしていたといえると思う。銀行のポスターに紅白歌合戦、ワイドショーにドラマ、CM、音楽番組、映画…ブランドミックスを合わせると、多い時は露出の9割が僕の仕事って場合もあったよ。一方で、僕は業界一の働き者だとも自負していたよ。1日5時間の睡眠時間以外はすべて仕事に充てていたし。『オンリーワン。自分の代わりはいない』が僕の口癖なんだけど、それを地でいっていた時代かな。でも、会社の業績は94年がピークで、以降は行き詰っちゃうんだけど…」
ファッションチェックの原点は追い詰められた昔の経験
ファッションデザイナーとして栄華を極めた翌95年、会社の業績が急激に悪化。15億円もの負債を背負うことになる。──バブル崩壊後にも関わらず、莫大な負債を抱えた理由とは。
「僕が社長ではなく職人だったから。年間5060億円も取引がある会社の長であれば、デザインをビジネスとして考えなくちゃいけなかったんだけど、僕は自分がアーティストでありデザイナーであることを優先してしまったんだよね。その証拠に、プロのデザイナーが狙う2つの賞、毎日ファッション大賞とFECデザイナー賞を受賞した年は必ず、大赤字(笑)。海外で仕事をする機会が多かったから、日本のマーケティングができていなかったことも一因だね。日本の業者からは『一般の人向けに創って下さい!』とお願いされ続けていたけど、『僕の魂をお裾分けしているんだから、そんな頼みは聞けない!』と断っていた。今考えると渋谷109にアートを持ち込むようなものだから、言う相手を間違えていたよね」
──返済は大変でしたか?
「今でも銀行の人間を見ると殺したくなるほど大変だった(笑)。実家の三重県津市の家、駐車場、成城にあった自宅、ゴルフの会員権、大事にしていた車6台…全部取られた上に、生命保険も解約させられた。自分から命を落とすことを考えたこともあったな…」
──借金は人を追い詰めますからね。
「その通り。友だちが高層マンションの18階に住んでいたから、飛び降りたら死ねるなと想像したりもした。でも、実際に上から地面を見下げると怖くて、働いて返済したほうがいいんじゃないかと思い止まったよ(笑)」
──実際はどのように返済を。
「それまでは原材料を加工して販売していたけど、負債を背負ったら原材料すら仕入れられない状態。素材としては、自分の体しか残っていなかったんだよね。そこでどうしたらいいかって死に物狂いで考えて僕は、自分自身を素材として使おうと決意したワケ。僕には無から有を生ずるアイデアがあると気付けたから。以降は自分をコントロールしながらプロデュースして売り込み続けた。ドン小西と名乗り、情報番組などに呼ばれるようになった。それが今のファッションチェックに繋がったんだ」
──まさに火事場の馬鹿力ですね。
「人間、追い込まれると異常な力を発揮するものだよね。サバンナで動物が生き延びるために必死で逃げ回るように、僕は過酷な環境に身を置いて初めて、自分を見出すことができた気がする。今、関わっている教育にも繋がっているんだよね」
夢を叶える三条件を満たすと好循環を生み未来は明るい
4年前からは名古屋学芸大学大学院教授としても活動中。その教育方針が気になるところだ。──ドン小西流の夢の実現方法を学生たちには指導していますか。
「僕はいつも若者に、夢を叶えるためには3つの条件を満たさなければいけないと教えているんだよね。1つ目は、自分の資質を知ること。己を客観的に観察して長所と欠点を見つける。見つけるためには生い立ちや置かれている環境、財力を含めて考える必要がある。そして『自分はこういう人間だ』と知って初めて個が生まれるから、それを最も活かせる道を選べばいい。僕に例えるなら、大き な呉服屋の生まれだから、医者や政治家には憧れない。美に対する造詣は深いけど、着物の世界だから曲線は苦手、とかね。これが3つの中で一番重要」
──なるほど! 2つ目の条件は。
「甘えずに、もっと世の中を疑えってこと。今の若い世代は日本にいると安泰だと思い込んでいて、何も考えていないからね。もっと細かな部分を見て、観察力と洞察力を磨かないと。どうしてこの男はモテるんだろう? とか何故、俺はこの女を見てムラムラしているんだろう? とかね(笑)」
──では最後は…?
「クリエーションする力、かな。世の中をマーケティングして、起きていないことを推し量る力を鍛えなきゃアカン! 僕らの時代は英単語や年号を記憶する力が学力と見なされてきたけど、今はそれだけじゃ時代に取り残されてしまう。1つの事柄だけじゃなく、ファッションや音楽、政治や経済、いろんなものを学んでおかないと出世できないよね」
──この3条件を満たすと?
「一生懸命にコツコツと積み重ねると、塵も積もれば山となる方式で、いつの間にか好循環を生むようになる、必ず。先日、開いた自分の還暦パーティーで実感したね。気付いたら多業種の方々に囲まれていてお祝いして頂けたのはコツコツとやってきたからだ、そのご褒美だと。目的を持って必死に生きれば、未来は明るいはずだよ」
死をも考えた苦境を乗り越えただけあって、1つ1つの言葉に重みと説得力があるドン小西さん。ありがたい助言に感謝します!!
INFORMATION
■書籍「逆境が男の『器』を磨く」
【INFO】
30代、40代は24時間、脇目も振らずにデザインと、もの作りに取り組んだ。おそらく人の3、4倍は働いたはずだ。「デザイナーとして世界で勝負したい」と決意を固めて米ニューヨークに進出。だが、その頃から少しづつおかしくなっていった。ニューヨークで注目を集めたはいいが、会社で唯一のデザイナーであり、経営者でもある僕が日本を離れている間に東京のオフィスはひどい状態になっていた。気付いたら、なんと15億円の借金を背負っていたのである。身の回りのものを処分して返済に充て、それでも残った数億円を返す日々。僕の48歳から57歳までの9年間はまさにそういう時間だった一。「粋=余裕」で大ピンチもチャンスにできる! 15億円の借金と、5年間のウツが人生を変えた。野暮なヤツは生き残れない。ドン底から這い上がった男が語る「壁をブチ破る人生哲学」。著書「逆境が男の『器』を磨く」は講談社+α新書から好評発売中。税込880円。
PROFILE
ドン小西(どん・こにし)
1950年生まれ 三重県津市出身
(株)小西良幸デザインオフィス代表。68年、明星大学入学後、文化服飾学院を卒業。81年に(株)フィッチェ・ウォーモ設立。「FICCE」「YOSHIYUKI KONISHI」などのブランドを主宰し東京、ニューヨーク、ミラノでコレクションを発表。91年、毎日ファッション大賞受賞、98年、FEC(ファッションエディターズクラブ)デザイナー賞受賞。精力的に作り出される作品群はエルトン・ジョンやスティング、北野武、Gacktら数多くの芸能人にも支持を受け、幅広い年齢層に熱狂的なファンを持つ。04年8月にはメンズブランド「d.k.f」を発表。国際的にも評価が高い。07年、名古屋学芸大学大学院メディア造形学部ファッション造形学科の特別講師、三重県観光大使(みえの国観光大使)に就任。「スッキリ!!」(日本テレビ) 「とくダネ!」(フジテレビ)などのテレビ出演や雑誌連載も手掛けマルチデザイナーとして幅広く活躍中。辛口ファッションチェックが人気を博し、講演会やイベント、トークショーなどにも引っ張りだこだ。
公式ブログ
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【INFO】
30代、40代は24時間、脇目も振らずにデザインと、もの作りに取り組んだ。おそらく人の3、4倍は働いたはずだ。「デザイナーとして世界で勝負したい」と決意を固めて米ニューヨークに進出。だが、その頃から少しづつおかしくなっていった。ニューヨークで注目を集めたはいいが、会社で唯一のデザイナーであり、経営者でもある僕が日本を離れている間に東京のオフィスはひどい状態になっていた。気付いたら、なんと15億円の借金を背負っていたのである。身の回りのものを処分して返済に充て、それでも残った数億円を返す日々。僕の48歳から57歳までの9年間はまさにそういう時間だった一。「粋=余裕」で大ピンチもチャンスにできる! 15億円の借金と、5年間のウツが人生を変えた。野暮なヤツは生き残れない。ドン底から這い上がった男が語る「壁をブチ破る人生哲学」。著書「逆境が男の『器』を磨く」は講談社+α新書から好評発売中。税込880円。
PROFILE
ドン小西(どん・こにし)
1950年生まれ 三重県津市出身
(株)小西良幸デザインオフィス代表。68年、明星大学入学後、文化服飾学院を卒業。81年に(株)フィッチェ・ウォーモ設立。「FICCE」「YOSHIYUKI KONISHI」などのブランドを主宰し東京、ニューヨーク、ミラノでコレクションを発表。91年、毎日ファッション大賞受賞、98年、FEC(ファッションエディターズクラブ)デザイナー賞受賞。精力的に作り出される作品群はエルトン・ジョンやスティング、北野武、Gacktら数多くの芸能人にも支持を受け、幅広い年齢層に熱狂的なファンを持つ。04年8月にはメンズブランド「d.k.f」を発表。国際的にも評価が高い。07年、名古屋学芸大学大学院メディア造形学部ファッション造形学科の特別講師、三重県観光大使(みえの国観光大使)に就任。「スッキリ!!」(日本テレビ) 「とくダネ!」(フジテレビ)などのテレビ出演や雑誌連載も手掛けマルチデザイナーとして幅広く活躍中。辛口ファッションチェックが人気を博し、講演会やイベント、トークショーなどにも引っ張りだこだ。
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取材・文/内埜さくら 撮影/谷口達郎