第三者の意見を素直に受け止めてみる!自分の弱点に気付き一からやり直す勇気を持つ!!己を知ることが強さに繋がるかから
「僕の愛する妻浩子、愛してるよ」。WRESTLE EXPO 2006での試合後、マイクを握った鈴木健想は、多くの人に感謝の言葉をかけた後、こう絶叫した。印象的だった。世界的に人気を誇るプロレス団体WWEの舞台で養った演出と純粋なプロレスへの思い…。観客に感動を、勇気を、幸せを与えるため、そして己の成長のためただ真っ直ぐに突き進む。健想&浩子の明日はどっちだ!?
倒れるんだったら前に倒れろという言葉に後押しされて
──03年に新日本プロレスを退団して、WJに入られて、まだWWEの入団テストに合格されていなかった状況で、何も決めてないままいきなり辞めてしまうというのは無謀のように見えますが、当時はどのようなお気持ちだったのでしょうか?「辞めたというか、WJ自体の給料が出なくなったんで、辞めざるを得ない状態になりまして、やっぱり給料がない状態で、プロレスという危ない職業をするわけにはいかなかったんで。そういう形で辞めることにはなったんですけど、振り返った時に、他の団体に行くことは可能だったと思うんですが、やっぱり基本的なところでアメリカに行きたいっていう夢があったので。このまま日本でやったとしても、また同じことを考えるんだろうなというのがあって。それならば、自分の考えとしては、同じ失敗をするんだとしたら、挑戦してダメだった失敗と、諦めた失敗とでは、大きな差があると思っていたので、まずは挑戦しようと決めたんです」
──3ヶ月くらい無職生活があって、かなり精神的にもまいってしまった時期だと思うんですが、その時に支えになってくれたのが奥さまで…。
「そうですね。もう、それこそ八方塞がりで、いろんな悪口も聞こえたし、今までよくしてくれた方も、やっぱりプロレスというものがなくなった時に、全員離れていっちゃうし。もちろん金銭的にもお金はないし。毎日、本当に塞ぎこんで、もう本当に泣いているような状態だったんです。そういう時も彼女が、小さい体でずっと支えてくれて。背中を押し続けてくれたというか。彼女も泣きたかったと思うし、キツかったと思うんですけど。『倒れるんだったら前に倒れろ!』って」
──健想さんの気持ちを分かってくれて、普通だったら生活のためにとりあえず働いてと言うところを、やりたいことをやらせてくれたと。
「とにかく信念だけは貫こうっていうのは、彼女と約束をしていて。彼女の実家に居候させてもらい、車も家も処分して。本当に一からの出発っていうか、本当に何もない状態でしたね」
──健想さんの奥さまのような内助の功というバックアップに思い当たることがあるので、とても共感します。
「ホントにキツくてお金もなくて、みんなからバカにされて。変に体だけデカイから目立っちゃって。『何やってんの?』と言われたら、何にも言えない自分がいて。レスラーですって胸張って言えないし。もちろん仕事もない。ケガの功名じゃないんですけど、そんな時に、彼女と一番分かり合えたかなというのはありますね」
──そしてほとんど何もないまま、奥さまと一緒にアメリカに行くことになりますね。
「僕がアメリカで挑戦することを決めて、いろいろと彼女が調べてくれまして。世界で一番大きいWWEという団体なんですが、どれだけ日本からビデオテープを送っても、誰も見てくれないんですよね。友人とかに相談したら、現地に行くことが先決じゃないかって。僕はすごく素早い動きができるわけでもないし、体が大きいことがウリなので、向こうに行って、真冬のニューヨークだったんですけど、裸になってアピールして入れてもらったんです。WWEっていうのは、セキュリティ自体がまず厳しい。アリーナに入ることが第一関門だったんです。その時、たまたま知り合いのカメラマンの人がいて。中に入れてもらったんです」
──何のツテもないままアメリカに行ったのに、ものすごく運が強いですよね。
「入れてもらうことができて、『ああ!よかった!!』っていう感じで。選手は試合の大体7時間前に集合なんですよ。その中で、週に1回のテレビショーに、30〜40人の若手がテストを受けに来るんですレスラーが。会場に行ったら、30〜40人がバーッといるわけで。そこで、何か目立たなくてはいけないっていうんで。さっきの裸になって、こう練り歩いたんです」
──やっぱり体当たりで自分を魅せていったほうが、いくらテープを送ったり、履歴書を送ったりするよりも早いと。
「本当に真剣にやることが大事だなと思いましたね。言葉もまったく話せないし。自分が本当にアピールできることを社長から全ての人に挨拶に回ったんです。それこそ120人くらいは行ったと思います、全員に挨拶をして。そしたらたまたまリングに上がっていいよって言われて、リングに上げていただいたんですけど、そこでもやっぱり、それこそ2時間くらい試合というか、アピールしまくりまして。その中で初めて2人だけ試合ができるんです。毎回呼ばれる40人に選ばれた時はまた120人全員に『今日、試合ができるのでありがとうございます』と、また挨拶をしに行って。で、試合が終わったら契約という話になって、本当に奇跡的で年間でも3〜4人しか契約してもらえないんで」
──一人一人に挨拶をするというのは、なかなかできることじゃないと思うんですが。
「今考えると僕もちょっと恥ずかしいんですけど。ハッキリ言ってホテル代もない状態だったんで。友人宅に泊めてもらったりとか、そんなことをやっていたんで、とにかく必死になることだなって思いましたね」
──その必死さや真剣さがちゃんと伝わって、やっぱり挨拶って日本人の礼儀を大切にする心が一番分かりやすく出せますものね。すごくストレートに誠実に伝わったのかなぁっていう。
「それか、よっぽどこの日本人は気の毒って思われたのか(笑)。今考えたら真冬で、ものすごく寒んですよ。ニューヨークって真冬だと零下10℃とかになって、その中でずっと裸でいたんですよね。当時はそれしかなかったんで、ウリが。そういうのも分かってもらえたかな」
──本当にすごいですね、情熱っていうのは。口先だけでチョロチョロ言わずに、文字通り裸になって、裸一貫の体当たりみたいな。
「本当によくやったなあと。でもある意味、そこで自分の人生が開けた瞬間かもしれないんで。やっぱり今はそこまで一生懸命やったら何かできるって実感できたので、心底からいい勉強になったと思いますね」
自分の弱さを知り克服に励むことで明日の強さが身に付く
──そのWWEに入って健想さんが日本に持ち帰ることができたもの、発見したものというのはなんでしょうか?「まずは、そういうトップレスラーの人たちと一緒に行動していく中で、一番大切に思ったことは『ファミリーが一番大事だ』ということ。特に自分の子供、奥さん。彼らはそれをすごく大事にしていて。それがあるから、最高のパフォーマンスが、それこそ週4日ロードに出るわけなんで、そのパワーの源っていうのは、絶対的に、家族を大事にするということ。もし家族に何かがあったりした時は、仕事よりそちらを取る。家族があるから仕事があるという、そういうスタイルがハッキリしているということ。それが一番、勉強になりましたね。それとレスリングに関しては、ああいうパフォーマンスはすごく目立ちますが、基本の動きというのを彼らはすごく大事にしていて。そのトレーニングがすごく多かったです。それがあるから、あのパフォーマンスができる。そういう基本的なことというのをすごく大切にしていますね」
──土台がしっかりしているから、煌びやかなパフォーマンスも軽薄なものになったりしない。
「アメリカのプロレスと日本のプロレスの違いって、ものすごく明確なところがあって。日本の場合は、リングの中のプロレス技術がすごく、良い言い方だと発達したんでしょうけど、悪い言い方だと、複雑になりすぎちゃってる。でもアメリカの場合は基本的なレスリング、基本的な試合運び、それしかやらないんです。日本のは細かくなりすぎて分かりずらくなった。子供があれを見ても分からないだろうなと。どこが痛いのとか、そういったところがアメリカだと、一つ一つの技を大事にするし、それこそ100年前のプロレスと今のプロレスとリングの中はまったく変わっていないんです。付随する入場だったりいろんなものが変わっても、リングの中だけは、今だに力道山と変わらないプロレスをしているんですよ。日本の場合はどんどん複雑になりすぎて、コアなファン向けの内容になっていっちゃったから…」
──だから小さい世界に入り込んでマニアックな状況になっていっているということですね。話は変わりますが男の強さと弱さについて、健想さんが今まで生きていて感じたことをお聞きしたいのですが。
「強さになるところというのは、自分がダメだっていうことに気付くことかな。自分で分かっているんですけど、僕はレスリングもあんまり上手くないし。 今、英語とスペイン語を勉強しているんですが、レスリングでも語学でも、自分の弱点にまずは気付くことかな。それと一からやり直す、勇気かな。とにかく自分を知ることかなって思います。それは今は分からない強さかもしれないけど、何年後かにはきっと自分に身につく強さなんだと思います」
一からの出直しですがしんどいけど楽しむながら進もうと
──他者、第三者の人の意見に耳を傾けるというのも学ぶことが多いんですよね。「ホント、そう(笑)。自分の場合はカミサンが、第三者としての目で悪いところを全部言ってくれて、それを素直に受け止めるんです」
──今後の目標を教えていただけますか?
「僕は、今もどうしても、もう一度WWEに帰りたい。心の中であそこでもう一度やりたいというのがあるので。カミサンと2人で相談して、一からやろうっていうことになったんです。今度はWWEに帰れるっていうことを信じて、そのプロセスを楽しもうっていうのは2人の約束ごとで。今も本当はしんどいんですけど、楽しむようにはしてます」
──女性の強さと優しさについて、最後にお聞きしたいのですが。健想さんだと奥さまのことになると思いますが。
「すごく信用していてくれている。それを…結婚生活で得たことなんですけれど…すごくケンカも多かったし。もちろんお互い違う環境で育ったわけなので、考えることも違ったし。でもちょっとずつケンカしながらも、自分は結婚というのは、そういう大きい差、小さい差を、少しずつ噛み合わしていくのが結婚生活だと思うんです。 それが結婚してから、彼女と上手に出来ていること。彼女が僕を信用して作ってきてくれたこと。毎日、毎日、ちょっとずつ彼女が進めてくれたっていうのは、彼女の強さだと思います。それは僕のことを信用してくれたということもあるし。 『絶対大丈夫だ』って、いつも僕に言い聞かせてくれたんで。うん…それが彼女の強さかなって思いますね。ちょっとしたことでも、お互い話をすることにしてるんですね、絶対。毎日、矛盾のある状態で終わらせないようにしてるんで。それを心がけて、信用してやってくれたっていうのは、彼女の強さだと思いますね」
──着実な会話というのは、とても大きいですよね。毎日、少しずつでも会話をして、日々、ズレを修正していく作業というのは。ズレが大きくなると、修正する力も2倍、3倍になりますからね。
「お互いを分かり合うことは、絶対に100%はできない。だから自分たちとしては、死ぬまでにはお互いのことを少しでも分かり合えて死ねたらなっていうのが、僕たちの目標でもある。それが僕たちファミリーの目標。他の人の心なんて絶対、知ることなんてできないし。一生彼女のことを分からないかもしれないんですけど。 一人の人間を追及する面白さっていうのを教えてくれたのが彼女なんです。いろんな人と付き合ったりするっていうのではなく、一人の人間をどれだけ追求できるか。お互い追求しようっていうのが、僕たち2人の目標ですね」
PROFILE
鈴木健想(すずき・けんぞう)
1974年7月25日生まれ。32歳。愛知県碧南市出身。
高校時代からラグビーを始め、明治大学時代は大型ロックとして活躍。95、96年と2年連続大学日本一に輝き、97年には日本代表としてフィジー、オーストラリア遠征を経験した。複数の社会人チームからの誘いを断り、卒業後は東海テレビに入社。営業として1年働いた後に坂口征二氏(当時新日本プロレス会長)にスカウトされ、99年4月、新日本プロレスに大型ルーキーとして入団。00年1月、中西学戦でデビュー。同年4月にデビューからわずか4カ月で第8回ヤングライオン杯を制し優勝の最短記録を打ち立てた。8月にはG1クライマックスにも出場。この年のプロレス大賞新人賞を獲得。01年から02年にかけて、棚橋弘至とのタッグ「キング・オブ・ザ・ヒルズ」で活躍。03年正月の東京ドーム大会を堺に退団、長州力率いるWJプロレスに移籍。7月の初代WMG王座決定トーナメントで準優勝するも翌月、退団。同年10月、世界的に人気を誇るプロレス団体WWEの入団テストに合格。約2年間でタッグチャンピオンを取るなど旋風を巻き起こした。浩子夫人も日本人初のWWEディーバとして白塗りゲイシャの姿でデビュー。WWE解雇後、日本に戻り05年からハッスルに参戦。ドイツのローカル団体やメキシコのCMLLにも参戦するなど世界各地で活躍。8月20日に行われた「WRESTLE EXPO 2006」では、高木三四郎とノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチを戦い見事に勝利する。大日本、DDTのマットに上がり、再び約1年間の長期メキシコ遠征に出発した。
鈴木健想(すずき・けんぞう)
1974年7月25日生まれ。32歳。愛知県碧南市出身。
高校時代からラグビーを始め、明治大学時代は大型ロックとして活躍。95、96年と2年連続大学日本一に輝き、97年には日本代表としてフィジー、オーストラリア遠征を経験した。複数の社会人チームからの誘いを断り、卒業後は東海テレビに入社。営業として1年働いた後に坂口征二氏(当時新日本プロレス会長)にスカウトされ、99年4月、新日本プロレスに大型ルーキーとして入団。00年1月、中西学戦でデビュー。同年4月にデビューからわずか4カ月で第8回ヤングライオン杯を制し優勝の最短記録を打ち立てた。8月にはG1クライマックスにも出場。この年のプロレス大賞新人賞を獲得。01年から02年にかけて、棚橋弘至とのタッグ「キング・オブ・ザ・ヒルズ」で活躍。03年正月の東京ドーム大会を堺に退団、長州力率いるWJプロレスに移籍。7月の初代WMG王座決定トーナメントで準優勝するも翌月、退団。同年10月、世界的に人気を誇るプロレス団体WWEの入団テストに合格。約2年間でタッグチャンピオンを取るなど旋風を巻き起こした。浩子夫人も日本人初のWWEディーバとして白塗りゲイシャの姿でデビュー。WWE解雇後、日本に戻り05年からハッスルに参戦。ドイツのローカル団体やメキシコのCMLLにも参戦するなど世界各地で活躍。8月20日に行われた「WRESTLE EXPO 2006」では、高木三四郎とノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチを戦い見事に勝利する。大日本、DDTのマットに上がり、再び約1年間の長期メキシコ遠征に出発した。
取材・文/佐々木竜太 撮影/谷口達郎