「ゲッツ!」この短いフレーズを聞いただけで、あの指差しポーズや顔を即思い出せる人は大勢いるのではないだろうか。このネタを03年のブレイク以降も、ひたすら続けるダンディ坂野さんが今月のパイセン。芸人になるまでの経歴の“おさらい”と、人生の転機について語ってもらった。「もはや信念まで感じさせる」と言われている、このネタを続ける理由もご本人に直撃! 愛される理由を探る!!
“一発屋芸人”という名前を最初に背負ったと語る、ダンディ坂野さんが新年一発目のゲスト。「波田陽区さんとムーディー勝山さんが出る企画が持ち上がると、あの黄色いスーツのリーダーも呼ぼうという話になるらしいです(笑)」と自身の芸人としての立場を語りつつ、サラリーマン人生から芸人へと転換した経緯もお聞きしました!
レンタルビデオ店でのバイトが今のダンディの礎になっています
──芸人を目指したきっかけは何だったのでしょうか。「小さい頃はテレビっ子でして、最も刺激を受けたのが当時、たのきんトリオだった、田原俊彦さんなんです。すご~く好きでしてねえ、漠然と『大きくなったらトシちゃんのようになりたい』という夢を持ちました。でも、15歳ぐらいで気づきますよね。自分はアイドルになれる顔じゃないと(笑)そんな時にブレイクしたのが、とんねるずさん。お笑いをやればアイドルと会える、共演できるということが分かって、それで芸人になろうと思ったんです」
──芸人を目指して上京したのは26歳ですよね。高校卒業後は…。
「地元で普通に働いてました。最初は石川県に多い繊維の会社に就職したんですけど、半年と少しで退職したんです。入社後すぐ三交代勤務制に変わったんですけど、『将来トシちゃんみたいになりたいのに、夜中に作業着を着て何をしているんだろう』と思ったものですから(笑)だけど当時はただ夢を語っているだけに過ぎなくて、現実を見て次は石川県の小松市にある、日本一大きな建設機械メーカーに就職しました。でもその会社も2年半ほどで辞めて。その次のバイトが、今のダンディの礎を作ったんですよ」
──人生の転機になったということですね! どんなバイトですか?
「当時始まったばかりだった、レンタルビデオ店です。今から30年近く前で時給900円。高給ですよね。しかも夜中12時から朝4時は、1300円ももらえたんです。座ってテレビを観ながら受付をすればいいだけの仕事だったんで、三交代勤務が嫌で会社を退職したのに結局、夜勤をするという(笑)でも、バイトをしながらいつもアメリカのコメディー番組を観てたんですね。エディー・マーフィーさんの人気に火がついた『サタデー・ナイト・ライブ』とか。21歳だった僕は、それを観てアメリカンコメディーのようなギャグを作りたいと考えたんです。それが、『ゲッツ!』の基礎。28~29歳の頃にダンディ坂野が始まり、36歳でネタが当たるわけですが、あのバイトをしていなければ思いつかなかったんです」
──そして上京するための資金を貯蓄し始めるんですね。
「年を取ってしまうと焦って、2年間で80万円貯めました。それまでは車にお金を注ぎ込んでましたね。金華山という、バラ模様のシートにお金をかけたりして。ヤンキー漫画全盛だったもんで(笑)」
──そして、上京して芸人養成スクールへ。
「1期生募集を『月刊デビュー』で締め切り間際に知って、貯金をして2期生に応募したら受かったんです。受かった…って、お金を払えば全員合格なんですけど(笑)でも1年留年しましてね、レンタルビデオ店でいうところの延滞料金を払いました(笑)2期生で元を取ったのは、僕と東京03の飯塚(悟志)クンだけなんじゃないですか。ユリオカ超特Qは元、取れてないと思います(笑)」
──そうなんですか(笑)ゲッツ!の誕生秘話はどんな感じだったで?
「実は生みの親はアンジャッシュの渡部(建)さんなんですよ。最初は僕、『ゲット』と言っていたんですね。それで、同じステージに上がる日に本番を終えて楽屋に戻ったら、渡部さんに『ゲッツって何だ?』と聞かれたんです。僕が『ゲッツじゃなくてゲットです』と訂正したら、『いや、絶対にゲッツって言ってる』と言い張るんですよ。だから次のステージで『ゲッツ!』とやったら、お客さんもステージ脇にいた渡部さんも大爆笑。それで、これはイケるな、と。ただ、本来の英語表記はGETSですから、造語ですけどね」
「常に人当たりよく」を心掛けると家で方針状態になることも…(笑)
──ダンディさんがずっと続けているそのネタは、「誰も蹴落とすことなく見ていて誰も気分を害さない」と高評価だそうですが。「それをまったく意識しないでネタをやり始めて、結果的にそう受け止めてもらえているなら、これほどありがたいことはないですよ。ただねえ、僕のイメージは常に黄色いスーツを着て、ニコニコしていて『ゲッツ!』と言う芸人でしょう? だから、見ていてハラハラさせられるとか、上からの目線で眺めていられるとかよく言われるんですけど、このイメージに私生活を侵されることがあるんですよ。若い人に変な上から目線で話しかけられると、こっちはいい年したおっさんだから、面倒くさいな~と思っちゃう(苦笑)普段は“たけちゃん”“ダンディさん”と呼び合っているカンニングの竹山(隆範)さんなんか、最近はいい人だということも出していますけど、基本的にキレキャラですよね。ああいう人が少し優しく振る舞うだけで、他人はすご~く優しく感じるのに、僕は真顔でいるだけで、不機嫌だと受け取られる。だから常に人当たりをよくすることを心掛けてはいるんですけど、家に戻ると放心状態になることもありますよ。大変なんですよ、これでも(笑)キャラが固定するのはいいことですけどね」
──人前に出る職業ならでは…ですね。苦労した時、励みになった先輩の言葉はありますか。
「ある大御所の方に言われた『どんな心境であろうと、お前のことはみんなが知ってるんだから、まだ出てるんだと思われてもいいから、胸を張って出て行け。出られないヤツは一度沈んだら一生、出られないんだから』という言葉ですね。僕は、一発屋芸人の元祖みたいなものなんですよ。僕の前は何年か期間が空いているんです。ほかにもいるんですけど、なぜか僕1人で辛い目に遭いながらその肩書きを背負わされてきた。こういう立場にいると、売れてる人をひがむというか、嫌なセリフを言う役回りをさせられることがあるんですね。言えばウケることが分かってるんですけど、続けてると、こういうことをやるために芸人になったわけじゃないって、メゲてくるんですよ。気持ちが腐ってくる。でも、腐りながらも表面には出さずに何とか続けていくと、先が見えてくる。だから、好きなことをやり続けることは大事なんだ、と」
──継続は力なりを体現しているんですね。今までのお話ではバイトとネタ誕生が人生の転機となっているようですが、あと1つ挙げるなら何でしょうか。
「NHKの『爆笑オンエアバトル』に出演させて頂いた経験ですね。当時の僕はライブでは重宝して頂けるようになっていて、ゲストのギャラ3000円をもらうと、ちょっとしたスター気取りで、渋谷からタクシーで帰宅したりしてたんですよ(笑)ネタ見せだと往復の電車代400円、本番で1000円のギャラですから交通費を入れるとトントンですけど、ゲストの時はバーッと(笑)そのことを知った番組スタッフさんが僕を第1回目に出場させてくれたんですけど、最初は4回中3回、合格したんですね。その後5連敗してやっと合格したら、スタッフさんだけの打ち上げに呼んで頂けたんですよ。応援してくれている気持ちが痛いほど伝わってきて『頑張ります!』と宣言した次からまた5連敗しちゃうんですけどね(笑)あの番組で名前が全国区になったのは、間違いないんです」
──スタッフさんだけの打ち上げに呼ばれるとは、昔から愛されキャラなんですね。今にも通じますね。
「ありがたいことに落ちこぼれキャラを受け入れてもらえているからこそ、僕のスタンスは常に“現状維持”。持論ですけど、1つのネタでブレイクしたら、2回目のブレイクはないと思って今までやってきています。新たなネタでウケることは、絶対にない。僕はそう信じて『ゲッツ!』をやり続けてきて今まで何とかなってきましたし、これからも何とかなると思っています。だから今後も一生懸命1つのネタを続けるだけです」
「話が長くなっちゃいましたね」と常に周囲を気遣いつつ&笑わせながら、誠実な受け答えをしてくれました。またの登場をお待ちしております!
PROFILE
ダンディ坂野(だんでぃ・さかの)
1967年1月16日生まれ 石川県出身
93年に上京し、プロダクション人力舎のスクールJCA2期生に(後にサンミュージックプロダクションに移籍)。96年、デビュー。99年には、NHK「爆笑オンエアバトル」第1回放送に出演し、合格。番組初期の功労者である。バラエティをメインに映画やドラマ、Vシネマなど役者の顔も。またCM出演多数で、12年の契約本数8本はお笑い芸人としては最高本数だった。現在、フジテレビ系ドラマ「残念な夫。」(毎週水曜22時)に出演中。
ダンディ坂野(だんでぃ・さかの)
1967年1月16日生まれ 石川県出身
93年に上京し、プロダクション人力舎のスクールJCA2期生に(後にサンミュージックプロダクションに移籍)。96年、デビュー。99年には、NHK「爆笑オンエアバトル」第1回放送に出演し、合格。番組初期の功労者である。バラエティをメインに映画やドラマ、Vシネマなど役者の顔も。またCM出演多数で、12年の契約本数8本はお笑い芸人としては最高本数だった。現在、フジテレビ系ドラマ「残念な夫。」(毎週水曜22時)に出演中。
Interview&Text/内埜さくら Photo/おおえき寿一