激しく腰を振りながら髪をかきあげ客に手を振り「◯◯より普通に△△が好き!」と叫ぶ歌ネタでブレイクした〝孤高のカルト芸人〟永野さん。DVD「Ω」の取材以来、約7年ぶりにご登場頂いた。芸歴28年の永野さんには業界にファンが多く、関係性が深い方とのエピソードも披露。ただデビュー時の話が前回と違っていた。「嘘ついてました。今日は本当のことを言います(笑)」ウィキペディアに載っていない〝真実〟が次々と明らかになる――。
『事務所内での〝うねり〟は全部自分発信!グレープ繁栄は私の尽力です』
前回の取材時は嘘をついてましたNSC東京の面接に落ちています──約7年ぶりのご登場になりますが、芸能界入りの経緯から聞かせてください。
「地元・宮崎の高校を卒業して上京後、東京にいる理由作りのために専門学校に入りました。お笑いは高校の時からやりたくて、ただ吉本興業の養成所NSC東京がまだなかった。若手にはダウンタウンさんやウッチャンナンチャンさんがいて、NSC以外で東京勢が考えるのが日本映画学校(現日本映画大学)。進む道は、どちらかだろうと。…すいません、嘘ついてました(笑)NSC東京校はありました。一期生の面接に落ちてます」
──真実をお話し頂けますか…。
「分かりました、今日は本当のことを言いますね(笑)落とされたので、自分で手を挙げて始めました。当時は弟子入りか、事務所のライブを受けて合格して所属になるかの二択。これも言ってなかったですが、オフィス北野に『たけし軍団に入りたい』と電話したことがあるんです。たけし軍団は断られ、NSCに落ちる。最初に所属したホリプロに絶対入りたい!という強い気持ちもなく、ネタ見せに行ったらまた落とされたんですよ!ですが『入れてみるかコイツ』ってノリで決まりました」
──ホリプロ時代のエピソードを聞かせてください。
「さまぁ~ずさん、当時のバカルディさんがいらして、生意気だった自分が面白かったのか可愛がってもらいました。お二人は三軒茶屋に住んでいて僕も同じ三茶の激安アパートにいた。大井町でのお笑いライブに出演した際、お二人も司会でいらしていて、大竹さんか三村さんが運転するクルマに同乗して家まで帰ったことがあります。ヒドい話でしょ、なんのリスペクトもない(笑)当時の自分をぶっ飛ばしたくなりますよ。その時からこの芸風で、今は『独特ですね』となるんですけどザコ扱いもいいとこ。それでも自分が一番面白いと思っていて99年に『爆笑オンエアバトル』が始まった時は、事務所の先輩も出ていたのに『オンバトに出ている芸人全部、面白くねえ!一般の人にタマをもらうために、お笑いやってんじゃねえ』と後輩を集めて言ってました。で、02年、忘れもしない、マネージャーさんから某居酒屋に呼び出されて『オマエを好きだし辞めさせたくないけど、周りの芸人に悪影響を与えるから自分から辞めると言ってくれ』と泣きながら告げられました。ヨゴレなのに大手ホリプロにいるってスゴいと勘違いしていたらいられなくなって、突き落とされてから自力で這い上がってきた感じです」
──ブレイク時によく「業界にファンが多数」と紹介されてました。関係性の深い方を挙げると。
「よく言うのが斎藤工くん。13年放送の『日10☆演芸パレード』に出た時、サブ司会の斎藤くんがテレビ用のコメントで『永野さんという芽は、潰さないといけませんね』と言ってくれて騒がれたので売れると思ったら全然売れなかった。斎藤くんはドラマ『昼顔~平日午後3時の恋人たち~』でブレイクし、その時に売れてない自分に、齊藤工監督の短編映画『バランサー』のオファーがきた。あばれる君が本名で主演した映画のラスボス役で。自分を使ってもメリットないし集客にも繋がらないのに。聞いたら感じるものがあったと。斎藤くんは芸人の友だちが多いんですね。それで僕のことを尋ねたらみんな口をそろえて『永野さんはホントに面白い!』と言うからとスゴい人だと思ったって」
IQが高い恐ろしい子どもだった事実が判明して変えました…(笑)
──ほかの方はどうですか。
「金子ノブアキくん、清水康彦監督も仲がいいです。GLAYさんのMVに出してくれた清水監督が結婚した時の話なんですが、披露宴でネタをやってほしいと頼まれて、GLAYのコメント映像の後にやりました。〝クマさん応援大会〟というネタを必死でやっていたら、目力のあるイケメンがこっちを見ていてそれが金子ノブアキだったんです。その流れで斎藤くん、金子くん、清水監督、自分の4人が繋がって映像制作プロジェクトのチーム万力を結成し『MANRIKI』という映画を撮った。のちに金子くんに聞いたら自分を見た時、『ハードコアパンクと同じ香りがした』と。自分が原作を手掛けた映画で音楽監督をやってくれて、変態の兄弟役でも出演してくれた。俳優とか芸能人は、どうせ裏表があるだろうと疑うじゃないですか?金子ノブアキは気持ちで動く人でそれがないんです。あと、こじはるちゃん!日本テレビの『PON!』で一緒だった小嶋陽菜ちゃんは、今でも付き合いがあります。一昨年の3月に渋谷のロフト9でやったネタライブに来てくれました。場所がラブホテル街だったので大丈夫か、こじはるって(笑)」
──前回の取材時に「結婚したタイミングで売れた」というお話がありました。
「結婚も、年齢もあるんですが、正直売れるために合わせたのもあります。ラッセンのネタもそう。どうやったら売れるのかめちゃめちゃ考えました。そうしたらすぐに売れたのでやっぱりスゴいなあオレって(笑)『早すぎたんだ、スゴい人は理解されるのが遅い』と最近は言うようにしてます」
──なにかきっかけがあって?
「実家に帰った時に姉貴に言われて思い出したのが、幼小中一貫教育の学校に通っていて、ただ勉強をしなかったので高校は不良のところに行く羽目に…。自分のキャラや芸風は環境がそうさせた、ハードライフを送っていたと言ってたけど、実家はすごく温かい家庭で田舎で土地も広くてじゃあ、なんでこんなネタになるんだと。これは載せてください。県有数の幼稚園に入った当時の僕は、IQが高すぎて親が先生に呼び出しを食らったんです。恐ろしい子どもがきたって。一部で天才芸人と言われたんですけど、じゃなくてただの天才だったんです(笑)環境のせいではなく脳内の問題でした。だから今までインタビューを受けた際に『頑張ってきて…』と言ってたのを、オレはスゴいんだ!オマエらが理解するのが遅かったんだ!と言うことに変えてます今月から。コロナ禍でなかなか帰れず、やっと今年6月に帰省してこの事実が判明したので」
──バイト経験談もお願いできますか。
「貧乏時代はエンゲル係数を下げて生活してました。普通は、いっぱい稼いで使ってやる気が出るのに働くことが嫌で。だから最小限で生きていこうと。面接の緊張感も嫌なんです。お笑いがどうしてもしたかったので僕にとってはそれ以外の時間が無駄だった。それでも紹介してもらった三軒茶屋のビデオ屋は唯一楽しかったです。映画を見放題で最近映画について語っているのは元々好きだったんですけどタダでバーッと見られたのでそれは良かった。楽しくないと続かない、お金のためだけに働くのは無理ですね。自分がしたくないことが嫌で、バイトについてはいいことが言えない。頑張ってなにくそ!がプラスにならないんです僕の芸風って。(世の中を)ナメてるぐらい感じのほうが(笑)お笑いが一番にあったので楽しもうはなかった。楽しむ人っているじゃないですか。バイト先で友だちを作ったりはしなかったです」
──お笑いとバイト、どちらが本業だってことにもなりそうで。
「ブレていく人も見てきました。バイトががっつり本業になって頭が常識的になりすぎて…。日雇いばかりしてましたけどバイト先の偉い人には好かれないんです。なんでだろう?という思いをしたのがあって引っ越しのバイトをした時、同じことをやっているのにラスタマンみたいなレゲエの若者のほうが気に入られるんです。オジサンってやんちゃなほうに『分かるよ』と言いたくなる生き物。分かります?結局、人間って動物で弱肉強食なんだと。あの時のことは傷のように刺さってますね。このオヤジは、といっても今の自分より若いですけどバイトの若者に多少の恐怖から優しいんだと気づいてしまい、天才なんで…(笑)社会勉強にはなりました。肉体労働系の現場は威圧的で声の大きい人が生き残る世界なんだって」
物議を呼んだ「水ダウ」の企画は別番組でうまく着地させましたよ
──話は変わりますが、最近の話題にTBS系「水曜日のダウンタウン」があります。仕掛け人なのに炎上してしまって。
「凡人どもは逆張りすると頭がいいと思われたがるのか最初は、しんいち叩いてたのに『いや、あれぐらい言うアイツが』とさも深いかのように言いやがるんですよ。雑誌の発行時には決着してますがカンテレ『マルコポロリ!』という東野幸治さんの番組からオファーがありまして、事務所の芸人が大集合。収録が水ダウの6日後ぐらいで、しんいちと一緒にいるだけで周りはピリピリしてましたけど(笑)うまくオチはつけました。ちゃんとやりましたよ、我ながら自分のことがスゴいなと」
──次々と後輩が売れてますが永野さんにとって事務所の存在とは?
「一瞬、好感度も気にしましたがまあ、オレのお陰ですよね、ハッキリ言えば。凡人はサンドウィッチマンだと思いますよね(笑)サンドはずっと売れていて素晴らしいですよ、もちろん。けれど私が世に出てからみんな売れ始めた。それまでのグレープはサンドと、その他というイメージだったのがこの〝毒素〟が加わることで急にやんちゃになりません?ふざけた感じに変わったんです。だけど僕は褒められる喜びをほしくないので黙っていたら、他の芸人たちが褒められたくて自己アピールしてきて。ドカントさんで真実を言うと、事務所が好転したのは僕のお陰なんです」
──言われてみれば確かに、イメージが変化しました。
「サンドの二人は優しいしスゴいんですけど〝うねり〟は全部、自分が巻き起こしている。カミナリやしんいちにちょっと言ってアイツらが言い返してくるやり取りとか、仕掛けているんですよ(笑)みんな分かってるのかな(笑)あと、ティモンディ前田イジリもするし。で、笑いこそ起こっているけどオチはだいたい『永野は悪いヤツだ!』となる。でも今、楽しかったでしょ、と。言うたら野暮ですけど、グレープ繁栄は私のお陰だったんです。相当なキーパーソンなんです」
──芸歴28年を数えます。今後についてのお考えは。
「YouTubeをやっていて、そういうつもりはなかったけど誰も観ないから、音楽の話を流していたらそっちがバズって登録者が増えまして。そこでコントもやっているんですね。それで前に事務所にいた後輩のオヤジさんが地元・山形の有力者で、そのツテを頼り、山形国際ムービーフェスティバルでコントをオムニバスで流してもらったらことがあるんです。その映画祭に『世界の中心で、愛をさけぶ』『GO』の行定勲監督がいらして監督が観ている中で30分、上映された。その後のセレモニーに出たら行定監督から『気持ち悪かったねえ』と言われ、続けて『こんなに気持ち悪い笑いを日本でやっている人は少ないんだから続けた方がいいよ』と。それがうれしくて、今後は自分にしかできない変なことをやりたい。ザ・タレントの仕事は上手い人がいっぱいいるし、すぐに面倒くさい顔をしちゃうけど、こっちだったら勝負になるかな」
PROFILE
永野(ながの)
1974年9月2日生まれ 宮崎県宮崎市出身
95年頃に活動開始。“孤高のカルト芸人”と称されるシュールな芸風が持ち味のピン芸人で、長きに渡ってライブシーンで活躍。14年に「ゴッホより普通にラッセンが好き」のフレーズで知られるネタでブレイクし、数々のお笑い番組に出演。また清水康彦さん、斎藤工さん、金子ノブアキさんと映像制作プロジェクト「チーム万力」を結成し、19年公開の『MANRIKI』を発表するなど多方面で活動。仙台放送「永野のわっしゃ!」、ラジオ「永野の目には見えない美術館」(Artistspoken)、「60TRY部」(ラジオ日本)レギュラー。映画や音楽に造詣が深く、YouTube「永野CHANNEL」配信中。8月23日(火)に東京・南青山のBAROOMにて開催の「MY ROCK, ONLY ROCK vol.1」に出演する。
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永野(ながの)
1974年9月2日生まれ 宮崎県宮崎市出身
95年頃に活動開始。“孤高のカルト芸人”と称されるシュールな芸風が持ち味のピン芸人で、長きに渡ってライブシーンで活躍。14年に「ゴッホより普通にラッセンが好き」のフレーズで知られるネタでブレイクし、数々のお笑い番組に出演。また清水康彦さん、斎藤工さん、金子ノブアキさんと映像制作プロジェクト「チーム万力」を結成し、19年公開の『MANRIKI』を発表するなど多方面で活動。仙台放送「永野のわっしゃ!」、ラジオ「永野の目には見えない美術館」(Artistspoken)、「60TRY部」(ラジオ日本)レギュラー。映画や音楽に造詣が深く、YouTube「永野CHANNEL」配信中。8月23日(火)に東京・南青山のBAROOMにて開催の「MY ROCK, ONLY ROCK vol.1」に出演する。
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Interview&Text/立花みこと Photo/渋谷和花