テレビ東京『元祖!大食い王決定戦』のメインMCとして、また番組内で出演者に覚えやすいニックネームを付ける“元祖・あだ名命名の達人”としても知られる中村ゆうじさん。実はバラエティ番組出演だけではなく役者として、日本一のパントマイミストとして「三本柱」で生き馬の目を抜く芸能界で生き延びてきたと語る。何度も挫折を経験しながらも芸にまい進してきた情熱の源と、芸能生活40年を超える男の仕事の極意を紐解いてみるとーー。
パントマイム・役者・バラエティ若い頃から三本柱で生きると決意
──中村さんといえば若い世代には、『元祖!大食い王決定戦』のメインMCとして知られていますよね。「最近はテレビでパントマイムを披露する機会が少ないからそうかもしれませんね。ただ、僕は若い頃からパントマイムと役者、そしてバラエティのお仕事の三本柱、それぞれ別の顔を持って生きてきたんで、どの柱を切り取って見てもらっても構わないんですよ。正体を見極められない生き方を目指してきて、今の自分があるので」
──その三本柱を立てようと思い立ったのはいつですか?
「東京バッテリー工場というコントグループが解散した、20代前半の頃です。『どうやって生きていこう』と考えた時に、すぐ武器になったのがパントマイムでした。でも、パントマイムだけでは収入が少なくて食っていけないから、芸能界で生き抜くためには武器をいくつも身につけないと駄目だと悟ったんです」
──柱の1つであるパントマイムを勉強するため30歳の時、パリへ単身渡航した経験が、人生のターニングポイントになったそうですね。
「本場の芸の技術力の高さと彼らの生き方を見せられて落ち込んじゃったんです。ヨーロッパはストリートでパフォーマンスをする文化が生活に根付いてるから、僕も向こうでできた仲間とつるんで小銭を稼いで生活したんですね。それで、小銭を持ってみんなで食事に行くでしょう。途中、人がいる場所を通りかかると『ちょっとココでやろうぜ』と言って、そこでまた芸を始めちゃうんですよ。この人たちって何て芸人らしい人生を送ってるんだろうと思い知らされたんです。しかも彼らが今までやってきた芸を全部見せてもらったら、研究所で2~3年パントマイムを学んだだけの自分は単なる猿真似をしていただけなんだと、ショックを受けましてね。僕の芸はいかに“借り物の文化”であるかがよく分かって、基礎から勉強し直さなくちゃいけないことは理解できたんですけど、今からじゃ間に合わないと思ったんですよ。だから日本に戻ってからは半年間ぐらい、何もやる気が起きなかった」
──ですがその後、武術をパントマイムに取り入れ始めますよね。
「東洋人らしい身体の動かし方って何だろうと考えたら、小さい頃から好きだった武術が思い浮かんだんです。面白い先生を見つけては、乗り換えて習いに行きましたね。一番パントマイムに役立ったのは古武術。もうお亡くなりになってしまったんですが、伊藤昇先生に6年間基礎を習いました」
──ほかにはどんな武術を。
「合気道や骨法に空手に八卦掌…太極拳は今は習っていないんですけど、レッスン代がすごく高かった。気功と太極拳、各1レッスン7000円。1回で1万4000円、月4回計算で5万6000円でしょう。金かかって仕方なかったなあ。ボクシングジムにも通ったし、最終的には若い人に混ざって総合格闘技まで辿り着いてしまいました」
──なぜ武術から総合格闘技に?
「パントマイムを研究するつもりがいつからか『もっと強くなりたい』という願望にすり替わっちゃったんです(笑)鍛えると身体が変わってくるのが面白くて」
──なるほど(笑)今では日本一のパントマイミストになりましたが、後継者を育てる予定は。
「希望者がいれば教えますけど『石にかじりついてでも修行したい』って人に出会ったことがないんです。いたとしてもすぐに辞めちゃう。学校に教えに行く機会もありますけど、20歳ぐらいの学生に少しレベルが高い技術を教えると即、来なくなりますからね。それぐらいのことで辞めちゃうんじゃ、どこに行っても通用しませんよ。仕事なんて最初は何でも辛いものだから、辛さの中に自分から飛び込むぐらいの根性がないと、技術なんて習得できない。修練とは総じて、しんどいものですから」
──修練と聞いただけで厳しそうなイメージも浮かびますし。
「どの道を志す時も一緒で、厳しすぎるというほど厳しいわけじゃないんですよ。パントマイムは技術職だから、工場で旋盤を扱うのとほぼ同じ。技術を身につけるためには、1日たりとも休んじゃいけないわけです。毎日できる覚悟を持てるかどうかなんです」
──中村さんは、嫌だと感じた経験はないんですか?
「技術を習得したい熱意の方が勝ってたから一度もありません。パントマイムと出会っていなかったら芸能人として売れてなかったと思います。基礎にあるから今の僕があるんであって、パントマイムの技術を身につけずに“役者志望の若者”という立ち位置で過去の自分を考えたら、今の僕はないと思う」
──先ほど三本柱のお話をされましたが、それぞれで壁にぶち当たった経験はないんですか?
「そりゃあもちろんありますよ。でも、壁にぶち当たったら別の柱を主軸にしちゃう(笑)バラエティで壁を感じたらパントマイムに、パントマイムに限界を感じたら役者に。どの仕事もまったく内容が違うから、知らない世界を体験できて面白いんです。僕は何でも体験してやろうってタイプなんで、何が待っているか分からない世界の方がワクワクするんです。『どうしたら予定調和を避けられるか』がコントの極意でもあるんですけど、予定調和でこれからまた同じことを繰り返すのかと想像するだけでゾッとしますからね。だから僕なんかいまだに人の嫌がる役を演じたいし、大食いも、筋書きがないドラマで誰が優勝するか分からないから見てるお客さんが楽しめるんですよ」
──実現したい夢を持つ人も予定調和は避けたほうがいいですか?
「もちろん。若いうちは、とにかく何でもやってみることが大事。やりたいことをやってみたら意外とつまらなかったりだとか、やりたくない仕事に就いたら意外と面白かったりだとか、挑戦してみないと気づくことすらできませんからね」
──ちなみに、中村さんに予想した通りの結果を崩す面白さを教えてくれた方は。
「大竹まことさん、きたろうさん、斉木しげるさん、シティーボーイズの3人です。僕は6人兄妹の末っ子で、彼らは7歳上の僕の兄と同じ年齢なんですけど、『舞台では芸をやらない』ってことを教えてもらいました。きたろうさんなんて同じ舞台を3回やったら『飽きた』と言ってましたからね。だからみんな、公演を重ねるたびに仕掛けというか、イタズラを入れ始めるんです」
──どんなイタズラを?
「幕が開いた時、横にいたきたろうさんが衣装のランニングの脇を伸ばして、わざと乳首を出して待っていたりとか。『これにどう応えるんだ』っていう狙いなんでしょうけど、そんなことされたらこっちは芝居どころじゃなくて、明かりが点いた瞬間にプッって吹き出しちゃいましたよ。今だから言えるけど僕、客席を背にして局部を出したこともあったし。今年60歳になるんですけど、ずっと60歳過ぎの自分を想像しながら生きて来たんで、これからも予定調和を崩しながら、ひたすら楽しさを追求する生き方を追求したいですね」
──追求したい「楽しさ」とは何でしょうか。
「かれこれ16年ぐらい大食いに関わってきましたけど、スケジュールの都合でドラマとかに出られなかったんです。たまに出てましたけど、長期間拘束される仕事はすべてお断りしてたんで、タレント方面に芸能人生の軸を引きずられた思いがあります。役者として大切な時期に、成すべきことを成せなかった気持ちがあるんですよ。しかも大食いの主役は僕じゃなくて素人さんだから、僕の中では“人のお世話”なんですね。だから今後は、人のお世話じゃなく、役者やお笑いで自分の世話に重点を置きたいな、と。60歳になったら味のようなものがにじみ出てくるとも期待してるんで」
──何歳になっても夢を持つ姿、尊敬します!
「気持ちが20歳の頃と何も変わらないだけなんですよ。気持ちは一生、20代でいいんじゃないかなとも思っています。僕なんて、ついこの間まで勉強もしたし遊んだし散々ケンカもした、高校生だった気がするぐらいですからね(笑)それに『もう◯歳だから』と自分を括ったら、年齢を重ねるたびに生き辛くなるだけじゃないですか。若い頃は食べる物がない、金がないと心配してたけど結局その後、40年間生きて来られたんだから、それと同じことがまた続くだけだと考えた方が楽。若い人の中には20代から老後の心配をしているケースもあるらしいですけど、僕ぐらい楽観的に生きても人生、何とかなるもんですよ」
PROFILE
中村ゆうじ(なかむら・ゆうじ)
1956年7月8日生まれ
福岡県北九州市出身
75年に劇団テアトル・エコー俳優養成所に入所。77年、ロルフ・シャレとの出会いでパントマイムに目覚める。その後、お笑いの道へ。東京バッテリー工場、ラジカル・ガジベリビンバ・システムの一員として活躍。テレビ出演も果たすようになるが、87年にはフランス・パリへ単身渡航し、パントマイム修業に励んだ。帰国後、ソロ公演活動を開始。以後はテレビ番組の司会やリポーター、ドラマや映画、舞台など幅広く活動。13年、芸名を本名の中村有志から、中村ゆうじに変えた。主な出演作に「元祖!大食い王決定戦」「TVチャンピオン」など。
映画「コンビニ愛物語」(松生秀二監督)は3月19日公開。
公式HP
中村ゆうじ(なかむら・ゆうじ)
1956年7月8日生まれ
福岡県北九州市出身
75年に劇団テアトル・エコー俳優養成所に入所。77年、ロルフ・シャレとの出会いでパントマイムに目覚める。その後、お笑いの道へ。東京バッテリー工場、ラジカル・ガジベリビンバ・システムの一員として活躍。テレビ出演も果たすようになるが、87年にはフランス・パリへ単身渡航し、パントマイム修業に励んだ。帰国後、ソロ公演活動を開始。以後はテレビ番組の司会やリポーター、ドラマや映画、舞台など幅広く活動。13年、芸名を本名の中村有志から、中村ゆうじに変えた。主な出演作に「元祖!大食い王決定戦」「TVチャンピオン」など。
映画「コンビニ愛物語」(松生秀二監督)は3月19日公開。
公式HP
Interview&Text/内埜さくら Photo/おおえき寿一