幅広いレパートリーで人気の〝ものまね破壊王〟こと神奈月さん。高校生の時に出演したテレビ番組『5時SATマガジン』で、クラスの人気者から東海地区のスターになった。次は東京で勝負だ!とショーパブのステージに立ち、お笑いライブでのネタ見せで腕を磨く。が、ものまね番組出演までは約8年の時間を要した…。助言を芸に活かし、後押ししてくれた言葉で奮い立ち、飽きずにやり続けながら新しいネタにもチャレンジしていったら、芸歴35年のものまね芸人になった。「なにをやっても許されるところまできました」と笑う神奈月さんを直撃!
『〝似てなくても面白い〟というジャンルがあるんだと気づかされた!』
東京で勝負だ!と上京後はショーパブ修業ですぐに頭角を現した
──ものまねとの出会いから聞かせて頂けますか。
「『8時だョ!全員集合』や『オレたちひょうきん族』を観て育ってきた世代なので、お笑いはずっと好きでした。友だちの前で、ものまねや一発芸をやったり漫才やコントみたいなことをやっていました。1人でやるには?と考えた時に一番手っ取り早いし、周りの反応が良かった。ただ、その頃は、ものまね芸人になろうとは思っていませんでしたが…」
──その当時、「ものまね」というジャンルは?
「ないです。声帯模写ですね。古くは桜井長一郎さん、佐々木つとむさん、歌まねの堺すすむさんがいらっしゃって。僕が高校3年生ぐらいの時に『お笑いスター誕生!!』でコロッケさんが形態模写で出てきた。芸として括りができたのは〝ものまね四天王〟の方々が出られていた『ものまね王座決定戦』で、ものまねがお笑いの中から違う枠で出てきたんです」
──高校生の時に出演した中京テレビ『5時SATマガジン』の存在は大きかったですか。
「大きな転機になりましたが、自薦ではないんですよ。同級生がハガキを出したら中京テレビさんから連絡があり、仲のいい友だち数人を連れて行って担当ディレクターさんの前でやったら、そんなにウケず…。あれ?終わりかな?と思っていたら、たまたま別のディレクターさんが現れて、『面白いじゃん!出そうよ』と、その人にハマったんです」
──ギャラもあって。
「6並びのギャラをもらってました。番組に出る時は盛り上げ役で友だちを呼んでいくんです。岐阜の多治見からの交通費は友だちの分も6000円の中から払い、ご飯を食べて帰ってくる。手元には何も…6666円と書かれた半紙が残っているだけで(笑)」
──高校卒業のタイミングで上京は考えなかったんですか?
「芸人になりたかったので、チャンスが多い東京へ行きたかった!同時に大学進学も頭にあり、たけしさんの明治、タモリさんの早稲田に倣い東京の有名大学に入って中退してやろうと。浅はかな考えですが、同じことをしたらお笑いで成功するんじゃないかと。実力に見合わない偏差値の大学ばかり受けていたので一浪でもダメで、それでも東京に未練があるから親に頭を下げて『現役で4年制大学に受かったヤツより1年早く社会に出て稼ぐから東京の専門学校へ行かせてくれ』と、うまいことを言ったんですよ(笑)お袋は猛反対するも親父が『覚悟を決めてるんやな』と行かせてくれた。上京後半年でショーパブの世界に飛び込み、アルバイトとしてステージにも立つようになり『オレがやるのはこれでしょ!』と学校は半年ぐらいしか行かなかった」
──その店はどうやって。
「池袋西口のロサ会館にあった青春の館というショーパブの求人広告を見つけたんです。『ウェイターがメインだから週に5回以上来ないとダメ』と説明を受けて『お笑いを目指しているんです!頑張ります!』とアピールしたら採用が決まり、働き始めた。ほかが大学生のアルバイトなので、ただ女装をするだけとかネタができてなくて、ステージでのパフォーマンスは全然、面白くない。そこで店長さんに『こういうネタがあります』と積極的に働きかけていたら、新人の頃からメインイベンターみたいな扱いになっていました」
──鉄板ネタは?
「陽水さんはやってました。ネタ作りの話し合いの中で『サングラスしてみて』と言われてかけたら『井上陽水に似てない?』って。そこで曲を聴いたり、映像を見たりしてやり始めた。井上陽水さんは当時からウケてました。長州力さんもやっていたけど男性にしかウケませんでしたね(笑)」
関根勤さんに憧れ萩本欽一さんのある言葉に後押しされて奮起した
──そこで腕を磨かれて。
「池袋東口でお店をやられていた師匠の佐々木つとむさんがいらっしゃった時にお話をする機会があって『深夜の週に2、3回でもいいからウチでもステージをやってくれない?』と誘われ、深夜は空いていたので掛け持ちを始めた。『お酒の席だけじゃなくシラフのお客さんを笑わせないと通用しないよ』と言われて、コント赤信号の渡辺(正行)さんが主宰の『ラ・ママ新人コント大会』のコーラスラインというゴングショー形式のコーナーに出てみることにしたんです」
──結果はどうでしたか。
「高校生の時に出ていた『5時SATマガジン』に赤信号さんがゲストで来られたことがあって、リーダーが『ホントに高校生なの?面白いなあ』と言ってくれたことをネタ見せで伝えたら覚えていてくださり『できるよね?』と、いきなり5分ぐらいの1本ネタをやらせてもらったんです。振り、ものまね、振りの繰り返しでただの羅列。ショーパブ仕込みの下ネタ系とか危ないネタも入っていてまったくウケなかった(笑)」
──玉砕ですか?
「お酒の席と、シラフのお客さんの前では反応が全然違いました。『オリジナルのギャグだったり、トークの部分でボケだったりを増やしていきながら、ものまねを武器にしたほうがお笑い芸人としてはやっていけるよ』というアドバイスを頂いて」
──それは芸に活かされましたか。
「頂いた助言を頭の中に入れながら振りの部分があってオチもある、最後は大オチで終わる構成とかを考えるようになりました。でも、ショーパブで培ったバリバリ扮装して、出オチみたいなパターンも捨てないで取っておいた。その後、10年、15年ぐらいかけてようやく…場面に応じた振り分けができるようになりました」
──将来は、どんな芸人になりたいとお思いでした?
「多大に影響を受けて、DNAをもらったのは関根勤さん。関根さんに憧れを持っていて、今の芸風ではなく日本テレビの『カックラキン大放送!!』にカマキリ拳法で出てきた時から好きだった。ゆくゆくは、ものまねを交えてトークをする感じでやっていきたい目標がありました。人の言葉で自信が持てた、やっていこうと思えたのは『全日本仮装大賞』の打ち上げで頂いた萩本欽一さんの言葉ですね。『君の芸を認めてくれるスタッフの方が1人出てくれば、その人が引っ張り上げてくれるから、その芸風を続けていったほうがいい』と。今でも脳裏に残ってます。それが30代半ば前ぐらい、自分の中で迷いに入っていた時期で、ものまねだと巨人の長嶋監督ばかり求められて…大丈夫なのか、これで?って。そんな時に大将(萩本さん)の言葉があって、そういう人が出てくるまでこの芸をやり続けていればいいんだ!と後押ししてくれた。辞めようとは思っていなかったけど、もやもやとしていた部分が晴れましたね」
『やり続けているネタに自分が飽きなかったから生き残ってきたと思う』
〝似てたら儲けもの〟で面白くなりそうと思うほうを選ぶように!
──芸能生活でのターニングポイントを挙げるなら。
「ネプチューンがやっていた『おネプ!』という番組ですね。〝有名人が集う喫茶店〟というコーナーにオチ担当で出させてもらっていて、最初は得意なネタをやるんですが毎週だとネタが尽きてくる。そのうち、全然似てない竹野内豊さんで出たり。そんな時に視聴者の方からこんなハガキをもらったんです。『神奈月さんのものまね、なんでそんなに似てないんですか。似てないのにやるんですか。でも僕は面白いと思うから好きです』という。そうか!似てなくても面白いというジャンルがあるんだと気づかされた(笑)自分で出す出さないを判断せずに、気になったヤツがあったらとりあえずやっちゃおう。似てなくてもいいからドンドン出しちゃえ!と。その後、日本テレビで放送されていたお試しバトルの『やんちゃ』という番組の中から武藤敬司さんや萩原流行さん、新庄剛志さんが生まれていった。そこでできたネタが今の主流になっているので不思議だなあと思います」
──その視聴者の方に感謝ですね。個人的には吉田鋼太郎さんが好きなんですが。
「あれはホント副産物ですよ、似すぎですね(笑)新庄監督も『イチローより新庄の方が似てるよ』と人に言われて新庄?と思いながらも頬のこの部分を塗ってやったのがきっかけで、吉田鋼太郎さんも同じなんですよ。たまたまスタイリストさんが一緒で『神奈月さんのこと好きだって言ってましたよ』と話は聞いていましたが、ものまねしようとは思っていなかった。ある時、『神奈月さん、鋼太郎さんぽいから再現VTRに出てもらえませんか?』とホリプロさんから出演依頼があって、少しメイクをしてたら似るんじゃないと思った。なので日本テレビ『ものまねグランプリ』出演前の打ち合わせで『がっつりメイクしたら似るかも』という話をして、そうしたらホントに似ちゃったんです。後日、吉田鋼太郎さんと会った時に『神奈月さんを見た時、似てるんじゃないかと思っていた』と。僕の中では似ているものまねだから、もうちょっと早く教えてくださいよってなりました(笑)」
──人から言われて取り組むケースが多いんですね。
「テレビのワイドショーなんかは見たりしてますけど、自分1人の視野はそんなに広くない。だから『これはどう?』と言われて、調べて見た瞬間に『ちょっと面白そうじゃん』と心が動いた時は知らない人だけどやってみようか、となる。じゃないと、堂々と乃々佳ちゃんとかやらないです(笑)若い頃はそこそこ似てないとダメ、ウケないとやってはいけないとボーダーラインは引いてましたが、今はやったら面白くなりそうと思うほうを選ぶようになった。それでメイクをして似てたら儲けもの。似てなくて当然、これだけやっているんだから」
──デビュー時、芸歴35年超の長きに渡り、やられていると考えてましたか。
「ものまねだけでやってこれるとは想像もしなかった。ものまね以外に転身していかないと長く続かないだろうって。56歳になるまでヅラを被っているなんて(笑)」
──荒波の芸能界で、生き残ってこられた秘訣を尋ねられたら。
「陽水さん、長州さんなどずっとやり続けているネタに自分が飽きなかったこと。飽きずにやりながら新しいネタにもチャレンジしていけた。さっき話した視聴者からのハガキもそうですし、人からの言葉で気づかされ、励まされて、そういうのがあったからやってこれた。ここまできたら『オジサンがなにやってるんだよ』の部類に入るので、なにをやっても許されるところまできましたね(笑)」
PROFILE
神奈月(かんなづき) 1965年11月3日生まれ 岐阜県土岐市出身 87年デビュー。95年の『ものまねバトル』で注目を浴び、武藤敬司、長州力、原辰徳、長嶋茂雄、新庄剛志、石原良純、井上陽水、吉田鋼太郎、萩原流行らスポーツ選手や歌手、俳優、タレントなど幅広いものまねレパートリーを持つ。20年にYouTubeチャンネル「神奈月のカンチャンネル」を開設。日本テレビ『ものまねグランプリ』、テレビ朝日『相葉マナブ』(ナレーション)などに出演中。岐阜県土岐市・多治見市観光大使としても活動している。
公式HP
公式Twitter
公式Instagram
神奈月(かんなづき) 1965年11月3日生まれ 岐阜県土岐市出身 87年デビュー。95年の『ものまねバトル』で注目を浴び、武藤敬司、長州力、原辰徳、長嶋茂雄、新庄剛志、石原良純、井上陽水、吉田鋼太郎、萩原流行らスポーツ選手や歌手、俳優、タレントなど幅広いものまねレパートリーを持つ。20年にYouTubeチャンネル「神奈月のカンチャンネル」を開設。日本テレビ『ものまねグランプリ』、テレビ朝日『相葉マナブ』(ナレーション)などに出演中。岐阜県土岐市・多治見市観光大使としても活動している。
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Interview&Text/立花みこと Photo/渋谷和花